日本映像民俗学の会の設立趣旨とその歩み
日本映像民俗学の会のは、日本の民俗事象に関わろうとする研究者、映像作家、映像制作者など幅広い人びとの集まりで、1978に設立されました
日本映像民俗学の会設立趣旨
日本映像民俗学の会は、時間のなかに消えてゆく一回性の出会いを、光と影の生きた像として再現できる〈映像〉を媒介にして、日本の民俗事象にかかわろうとする研究者、映像作家、映像制作者など幅広い人々の新たな集りです。生活文化や民俗事象を生きた動態としてとらえることのできる映像は、これからの民俗調査に重要な役割を果たしてゆくのみならず、「日本とは何か」という私たちの存在基盤そのものを、視覚と聴覚から触発される感性をとおして訴えることができます。さらに、私たちの「いきざま」を言語の壁を越えて語ることも可能です。
本会は、映像と民俗学の結び得る方法と理論を模索しながら、映像民俗学の確立を目指すものです。
なお、この会は、誰に対しても開かれた組織です。今まで映像にかかわることのなかった人でも、民俗学についての専門家でなくてもかまいません。これから映像と民俗学に関心をむけようとする人々の入会を歓迎いたします。
映像民俗学の提唱と三つの課題
民俗調査に重要な役割を果たすのではないかと考えた私たちは、映像による民俗学・映像民億民俗事象を生きた動態としてとらえることのできる映像(ムービー・ビデオ)は、これからの学を標榜するささやかな会を、1974年の11月に創立しました。
「映像民俗学を考える会」と名付けられた私たちの会は、映像と民俗学の結び得る方法と理論を模索しながら、その映像民俗学の分野の確立を目指して、これからも少しずつ、進んでゆこうと考えています。
今までの映像と民俗学の交流の内実は、大変に貧しいものであったと思います。民俗学の分野では、ペンとノートの調査のみに固執を続け、映像表現の持つ可能性に積極的に切り結んでゆくことをしなかったと言えます。
映像の分野ものです。映像に関わる者と民俗学に関わる者とで構成されている私たち「映像民俗学を考える会」は、その方向にむかう工作者としての努力を背負いながら、資料化を可能にするまでの方法・技術論を映像民俗学の一つの課題として取りくんでゆきたいと思います。では,民俗事象をとりあげることもしばしばあったのですが、民俗学の立場からみて大切なポイントをみおとしている。つまり、映像に携わる人間は技術には熟知していても、大切なポイントをおさえる眼を欠落させていたと言えるのではないでしょうか。
そのような両面を備えることによって映像民俗学は映像民俗学として、真に存在し貴重な民俗資料ともなる映像を、後世に残すこともできると考えるのです。しかし、それはあるべきファイナルな姿であって、一朝一夕に実現するものでもありません。長い時間のなかで積みあげられてゆく
それにしても、民俗学の<魂>と映像という<器>を一致させることは容易なことではありません。映像メディアの利用には、多くの金がかかるからです。民俗学側が映像表現の可能性に目を漬ってきたのも多くはその事実に起因するでしょうし、映像の分野が民俗事象を見せ物的・興味本位に扱ってきたのも、金のかかることを理由に、商業主義ベースの上で作品化してきたことによります。しかし、その桎梏から抜け出す努力をしなければなりません。それはどのように可能であるのか、私たちは自らに問うてみるとともに、まだ出会っていない隠れた仲間たちと手を結び、真の映像民俗学を実現する社会的基盤の確立に努力を傾けてゆきたいと思います。それが私たちの抱えるもう一つの課題です。
第三に、私たちは「民俗資料映像ライブラリー」の創設を提唱します。日本の伝統的な生活文化、民俗に関する映像の保存と利用のために、是非実現しなければならないと考えます。
その為の捨て石になるべく,いま私たちは各都道府県及び映画・テレビ会社に調査表を発送し、民俗事象をとらえた作品のリスト・アップを進めています。各地の祭り・信仰・民俗行事・芸能・生活をとられたフィルムやビデオは、例え不十分な断片であっても、ある時期・ある時間・ある場所でとらえられたものである限り、貴重な史料価値を持つことは言うまでもありません。伝統的な生活文化や民俗の崩壊されてゆく現実を思うとき、それらは、映像民俗学の未来の一つの遺産となるものです。あちこちに散在し、死蔵され、また忘却、散逸しかねないその映像資料の所在を確認する作業を、とりあえず続けてゆきたいと思っています。4人の貧しい私たちの会ですが、以上、現在考えていること、やろうとしていることの三つを簡単に記しました。私たちの提唱する映像民俗学が、日本人の生活文化の歴史とその将来の研究に大きく貢献するのではないかと信じ、私たちは口火の役割を、力のかぎり果たしてゆくつもりです。皆さんのご協力をお願いして挨拶にかえさせていただきます。
1977年1月1日
映像民俗学を考える会
野口武徳 (成城大学 教授 社会人類学)
宮田 登 (筑波大学 助教授 民俗学)
野田眞吉 (映画作家)
北村皆雄 (映画作家)
本稿は原文一部の漢数字、誤植と思われる個所に校正を加えてあります。
日本映像民俗学の会 ─発足によせて
残存の事象記録、新しい都市文化も追求
野 田 真 吉
信濃毎日新聞 昭和 53(1978)年 8月 6日号
<「日本映像民俗学の会」の第 1回総会は、16日午前 10時から下伊那阿南町新野、伊豆神社御厨でひらく>
民族学あるいは人類学においても、その始めは好奇心にみちあふれた族行者、未踏の世界に憑(つ)かれた冒険者、探検者たちがもちかえった各地の人間生活の奇異な見聞記に、その発端をみることができる。我が国の民俗学も同様で、さまざまな旅行記や各地方に居住している好事家が日常生活のなかにみかける風習や伝承行事、口碑民話などに興味をもち、それを調べたり、書きどめたりしたことから始まった。そうした先達たちの「記録」が積み重なっていくなかで、次第に独自な学問的領域、学問体系をととのえ、今日の民族学、人類学、民俗学が形成されたことはご存知の通りである。
ところで、記録映画をつくっている私が民俗学に近づいていったのは、学問的な追究といった大上段な心構えからではなかった。記録映画を志向する者ならだれでも、人間的事象(社会的、文化的事象)に対する好奇心、未知の世界への探訪衝動、つまり前述した民俗学などの出発点となり、研究者の初心ともいえる「もの好きな人間」の発意や行動にみられた同質な気質をもっている。だから、特に日本人の生活意識の深層を歴史的にさぐってみようと思っていた私の場合、記録映画の制作過程のなかで、もの好きな気質を媒介として、ごく自然に民俗学に近づき、結びついていった。私にとって民俗学への関心は、私の記録映画つくりとうらはらな関係をもつに至った。
さて、我が国の民俗学の調査研究における記録手段は、以前からハンドライテイング─ペンとノート、それに普通写真のカメラが一般的な記録手段であった。主として文章と絵画、写真による記録であった。だが、これらの記録手段は対象の動態的記録の欠落がまぬかれない。「百聞一見にしかず」という具象的、即物的な表現をともなわない。また、対象となる人間の表情や動作のすみずみにしめされる、心意のデリケートな動きなどもとらえきれない。以上このようなハンド・ライティングの欠陥を補完する有効な記録手段として、私たちは現在、映画やビテオの映像による記録手段をもつている。
さて、我が国の民俗学の調査研究における記録手段は、以前からハンドライテイング─ペンとノート、それに普通写真のカメラが一般的な記録手段であった。主として文章と絵画、写真による記録であった。だが、これらの記録手段は対象の動態的記録の欠落がまぬかれない。「百聞一見にしかず」という具象的、即物的な表現をともなわない。また、対象となる人間の表情や動作のすみずみにしめされる、心意のデリケートな動きなどもとらえきれない。以上このようなハンドライティングの欠陥を補完する有効な記録手段として、私たちは現在、映画やビテオの映像による記録手段をもつている。であった。
私は民俗文化に心をよせる一記録映画作家として、ひん死の状態で残存する民俗学的資料となる題材に急ぎ取り組もうと思った。自主制作で「冬の夜の神々の宴─遠山の籍月まつり」(70年)、「雪は稲の花である─新野の雪まつり」(74年より制作中)を撮影した。私と同じように記録映像作家─北村皆雄は「神屋原(カベール)の馬─イザイホーの神事」(69年)、「アカマタの歌」(73年)など沖縄の民俗をとりあげた作品を自主制作した。
私たちの民俗学的な作品が仲介となって、かねがねから民俗学における映像記録に強い関心をもち、民俗学の新しい展開に意欲をもやしていた野口武徳成城大教授、宮田登筑波大助教授と知りあった。私たち 4人は、ここ数年間、民俗学と映像記録に関する諸問題を話しあってきた。そこでの問題点を私なりに要約してみよう。諸外国ではすでに映像民族学が確立しているが、我が国の民俗学の研究に映像記録が積極的に活用されていないのはなぜか。問題は民俗学のフィールドの崩壊による研究方向のゆきづまりと、将来の展望に深くかかわっているのではなかろうか。村の都市化現象と都市における新しい生活文化現象の進展に、民俗学はどのようにたちむかうか。
これら問題は多くの人々との討論を経る必要があるだろう。だが当面している課題として残存する民俗を民俗学視点から緊急に映像記録し、同時に新しい都市文化であり、広い意味の民俗文化である現在の流動する民俗をも記録し、研究する必要があるのではないか。それは農村の生活文化に対して民俗学が果たしてきた業績と同じに、今日に生きている私たちの任務であり、重要な研究課題であろう。このような諸事象を記録し研究するには、映像記録が最も有効である─といったことを私たちは話しあった。
そこで、私たち 4人は民俗文化に興味をもつ多くの同志とともに問題を追究し、「映像民俗学」の理論と方法の確立に努めようという趣旨から、8月 16日下伊那阿南町で「日本映像民俗学の会」の発足総会をひらくに至った。映像民俗学の確立は民俗学の新しい視野の展望にかかわり、民俗文化に関心をもつ記録映画作家の私にとっても大切な仕事だと思っている。
(のだ しんきち・記録映画作家)
『映像民俗学-討論:映像と民俗学を考える』別冊の発刊について
映像による民俗学・映像民俗学の理念と方法論を確立するための第一歩として、私たち「映像民俗学を考える会」の四人はシンポジウムをおこないました。映像と民俗学をどう結んでいくか。民俗学にとって映像とは何なのか。映像によって民俗学は何が可能になるのか。いくつかの問いとして発せられたこれら諸シェーマは、まだ十分に理念化されたものとは言えませんが、映像民俗学の生誕の手懸りを可能にすると信じ、小冊子にまとめみました。
1 民俗調査と映像
2 映像で何が可能か -映像表現と言語表現-
3 カメラとフィールド -映像と驕り-
4 民俗資料としての映像 -民俗資料映像ライブラリー
5 映像表現の異本理念と方法
6 映像民俗学の過去と未来
内容は以上の六章に分れ、野口武徳(社会人類学)、宮田登(民俗学)、野田真吉(映画作家)、北村皆雄(映画作家)の四人がそれぞれの立場から発言しています。
➡ 『映像民俗学』no.1 PDF